(機体#1)97式戦闘機乙型,第2中隊,調布飛行場,多分1942年秋
これは244戦隊の最初のエンブレムを尾翼に描いた97式戦闘機の例です(写真1)。このマークは戦隊が飛燕に機種変えをする1943年8−9月まで続きました。本機は全面明灰緑色で,機首はたぶん青です。日の丸の白帯は6箇所あり,胴体後部には赤1本と青2本の帯が描かれています。最後の青帯は垂直尾翼付け根までは届いていない事に注意して下さい。主翼前縁の識別帯は,主翼上の赤の柱が示すように赤です。

(機体#2)飛燕1型丁,#4424、244戦隊長小林照彦大尉機,調布飛行場,1945年2月10日
このマーキングは小林戦隊長機4424号の(少なくとも写真で確認出来る)2番目のもので,元の写真(2)は戦隊が渡辺はま子(歌手)とその楽団の慰問を受けた1945年2月10日に撮影されました。キルマークのクローズアップは写真(3)にあります。 濃緑色は取り除かれ,胴体帯は以前(48−005,機体#5)と違って色のついた物になっています。この帯はよく青と言われています(文献6,14)が、写真(4)をよく見るとこの帯の色はキルマークや主翼機銃口のパッチと同じです。当時の慣習からパッチは赤であり、青とは考えられません。確かに写真では日の丸より薄い色に写っていますが、下塗りの違いによるものです。同様の差が小林大尉の飛燕3295号機の写真における日の丸と尾翼の赤塗装にも見られます。キルマーク中の飛燕のシルエットはキルマークの赤と防眩塗装の黒との中間であり,コバルトブルーと思われます。この時点でアンテナ柱は取り除かれていますが,通信機まで取り除かれていると思うのは間違いです。たぶんより良い通信機が備えられていたのでしょう。主翼の機銃は取り除かれ,機銃口はパッチで塞がれています。

(機体#3)飛燕1型丁、#5262、小林照彦戦隊長の予備機、調布飛行場,1945年4月中旬
4月中旬小林戦隊長は足を怪我して飛べなかったので,この機で本当に飛んだかどうかは不明です。しかしプロペラの独特の警戒帯から明らかなように、3月19日板倉中尉は本機で出撃しました。 写真5にあるように11個のキルマーク(4月12日に達成)は4424号機ほど丁寧には描かれていないうえに、2つのF6Fマーク(順番としては7機目と8機目に相当)が最後になっていることから,マーキングは一度に描かれた事が判ります。この写真では機番と胴体後部の縦帯は見えませんが、板倉中尉が飛行した3月19日から変わっていないはずです。機番はコバルトブルーといわれています。残念ながら尾翼の戦隊マークは何れの写真でも写っておらず、機体#2と同じと思います。写真中で機体の前にいる背の高い女子学生は小林戦隊長の妹です。

(機体#4)飛燕1型丙,#15, 鈴木正一伍長機,調布飛行場,1945年1月29日
鈴木伍長は244戦隊に1943年4月に配属され,最初の撃墜(B−29)を1944年12月22日に白井大尉と共同で記録しました。1945年1月3日には更に2機を共同撃墜し,1月9日には単機で1機撃墜を,1月14日には1機撃破を,1月19日には2機の共同撃破を,1月27日にはもう1機共同撃墜を記録しました。その後本部小隊に移りましたが,2月16日の(この日の)5回目の出撃で足利市上空で撃墜され戦死しました。この時若干20歳でした。撃墜総数は1機撃墜,4機共同撃墜,1機撃破,2機共同撃破です。  このデカールはキルマークをつけた(写真6−8)彼の三日月隊時代の乗機を再現します。写真6は本部小隊に転属になる直前の1月29日に撮影されました。尾翼部分は写っていませんが、この中隊の他の機体と同様尾翼の戦隊エンブレムは全て赤のはずです。

(機体#5)97式戦闘機,第3中隊,調布飛行場,1943年秋
これは有名な244戦隊エンブレムを尾翼に描いた97式戦闘機の例です。この様な写真は(9)で初めて公開されましたが,より鮮明な写真(10)が文献9に載っています。この写真には胴体後半部分と尾翼部分しか写っていませんが,残りは通常の全面明灰緑色で主翼前縁の識別帯は黄橙色,日の丸の白帯は6箇所あるものと思われます。胴体後部の帯は明らかに黄色です。この写真では戦隊エンブレムは赤の2にダークブルーの4と星です。機体の前に立つパイロットは坂本務勉伍長で、後に戦死しました。

(機体#6)飛燕1型乙、#16, 中野松美伍長機,調布飛行場,1945年2月後半
中野伍長は震天制空隊のメンバーで,12月3日にB−29に体当たりを行い無事に帰還しています。この機体は彼が1945年2月後半に搭乗していたもので(写真11)、キルマークのクローズアップ写真(12)は244戦隊ホームページにあります(もとは写真週報)。戦後に取られた別の写真(13,文献12)ではナは方向舵の右側にもあることが判ります。

(機体#7)飛燕1型丙,#33, 中野松美伍長機,調布飛行場,1944年12月3日
この機体は中野伍長がB−29に馬乗りになって撃墜しパラシュートで生還したとされる機体です。損傷を受けた機体は日本橋三越デパートに12月16日から1945年1月末まで展示されました。幾つかの写真が公開されていますが,脚カバーの機番がはっきり写っているのは写真(14)のみです。赤の尾翼にあるナの字は比較的細いものです。

(機体#8)飛燕1型乙,#73, 板垣政雄軍曹機,調布飛行場,1945年初め 
この機体は板垣軍曹が震天制空隊に所属した時の乗機です。中野伍長と同様彼はB−29への2回の体当たり攻撃で生還し,戦争を生き抜きました。写真(15)はこの機のほぼ全姿を示します。尾翼部分は写っていないので,イの字体は不明です。このデカールにある字体は知られている他の例からの推察であります。