(機体#1)飛燕1型丁,#87, 小林照彦戦隊長機(?)、明野飛行場、1945年5月初め
この機体の写真は辰田守氏(元111戦隊の五式戦闘機パイロット)の個人アルバムにあったとされ,後に文献7(写真1)に載りました。キャノピー下に明らかに14個のキルマークを描き,小林戦隊長との関係をうかがわせます。写真の裏には"1945年4月明野において"とあるそうです。小林戦隊長は14機目の戦果(1機撃破)を4月30日に達成しましたので,これを描いたマーキングは早くて5月1日にしか描けないことになります。しかも小林戦隊長が5月に明野飛行場に行った記録はありません。もし明野に行くのなら,新しく割り当てられた五式戦闘機に乗っていたはずです。7番目と8番目のキルマーク(F6F)が間違った位置に描かれているので、キルマークは一度に描いた事が判ります。しかもこの機はアンテナ柱に白帯が巻かれて(何かの目印)いますが,主翼下面には爆弾架はついていません(つまり特攻機またはその護衛に使われたものではありません。)。これらの事から,この様なマーキングの飛燕が存在した事は確かですが、搭乗したパイロットが誰なのかはまだ判っていません。私たちは,87号機は小林戦隊長の乗機でも予備機でもなく、何かの目的で(セレモニー?宣伝?)5月に戦隊長のマーキングを描いた機体と思っています。  胴体の少し薄い帯は青とされていますが,多分白帯に濃緑色を上から吹きつけた体と思います。 写真にあるキルマーク直後の白い塗装は元の白帯の一部と思われます。もし少し薄い緑の帯にする場合は,まず白帯のデカールを貼り,その上にクリアーをかけてから濃緑色を塗って下さい。 尾翼のマーキングは写真に写っていませんので,あくまでこちらの推察です。

機体#2)五式戦闘機乙型,小林照彦戦隊長機,調布飛行場、1945年5月17日
この機体の写っている唯一の写真はキルマーク周辺しか写していません。文献8ではこの機は(以前の飛燕と同様)尾翼を赤に塗って,胴体に青帯びを描いているとしています。しかしこれは疑問です。この写真は244戦隊が都城基地を経由して知覧基地へ移動する1945年5月17日に撮影されており、この時点で戦隊は帝都防衛の任務を解かれています。従って戦意高揚の派手な塗装の必要はなく、しかも調布から知覧への長い道のりで戦隊長機をこの様な特別の塗装で目立たせるリスクは非常に高いものがあります。第30戦闘司令部は各機を十分に迷彩するように指示したはずです。これらの事から私たちはこの機体には赤の尾翼塗装はなかったと思います。むしろ写真(3)にあるように,他の五式戦闘機と同様の胴体帯と尾翼マークであったと考えています。本機は知覧に到着後すぐにタキシング中の事故で失われました。文献8にはこの機体の機番を68としていますが(尾翼にもこの機番があったはずです),これを支持する情報は持っていません。 写真ではB−29のキルマーク6個が見えます。本機が小林戦隊長の専用機なので,キルマークの順番は正しく記入されていると考えられ、もしそうであれば6個のB−29のシルエットは14個のキルマークのうち最初の6機か最後の6機のはずである。最初の6個とするとキルマークの最後は日の丸に重なりますので,キルマークの位置としてはイラストに示したものであろうと思います。これは244戦隊の習慣(コックピット下から描く)にも合致します。

(機体C#3)飛燕1型丁,#5262, 板倉雄二郎少尉機,調布飛行場,1945年3月19日
この機体は1945年3月19日に本部小隊の板倉中尉が第18,19振武隊を護衛して浜松沖の米艦船を攻撃した時の乗機です。しかしながらこの作戦は濃い雲のため失敗に終わりました。 オリジナル写真(4)では胴体の白横帯は濃緑色で大部分オーバースプレーされ見えにくくなっています。この白帯はデカール40/41を使うより、白帯を塗装しその上から濃緑色を吹き付けた方がリアルに仕上がるでしょう。これに対し縦の胴体白帯ははっきり見えます。脚カバーの機番62はコバルトブルーと言われています。増架タンク(元隊員によると灰色とのこと)側面には整備員の名前,前面には小林隊長機4424号機(48−003,機体#2)と同様必と勝が描かれ,更に前寄り側面に"武運長久"と"祷勝て"が描かれています。この場合の整備員の名前は全て判読できます。主翼前縁の識別帯は黄色です。この機には全ての機銃が装備されています。尾翼の戦隊マークは写真には写っていませんので,推定です。

(機体#4)飛燕1型丁、多分第159または160振武隊機,芦屋基地,1945年10月頃
文献12(1にも)にある写真は,米戦艦に突入する飛燕の絵画を胴体に描いた特攻機を示しています。写真には胴体の大部分と主翼付け根が写っていますが,大変残念な事に尾翼部分と脚カバーは写っていません。場所は明らかに芦屋基地(背後に55戦隊の五式戦闘機が写っている)であり、ここを経由した特別攻撃隊は第55,56,159,160振武隊です。第55振武隊は明野飛行学校の機体で,また第56振武隊は常陸飛行学校の機体で構成されました。一方第159,160振武隊は244戦隊機を使いました。写真では日の丸の白帯と白の胴体帯が一部残っています。さらに1945年6月29日の徳島新聞は(文献1)、第159振武隊の西野伍長の飛燕のマーキングについて書いています。それによると"西野伍長の名前が大きく描かれ,その上に胴体がまっ二つに折れて沈む米空母が描かれていた"とあります。また同記事には芦屋基地で撮影された第159振武隊員の記念写真が載っています。これらの事より,私たちはこの飛燕は第159または160振武隊の機体で、機械の故障か何かにより芦屋基地に残された機体であると考えます。
かなりオーバースプレーされている白帯をデカールで表現するのは難しいですし実際的でもないので,白帯を塗装後に濃緑色を塗ったあと他のデカールを貼る事をお薦めします。尾翼部分は写っていませんが,これらの振武隊は244戦隊の分隊として見なされていましたので、まず間違いなく244戦隊エンブレムがあったでしょう。もしエンブレムを置くのでしたら,51/52が適当です。脚カバーには(数字ではない)何かのマークがありますが,なんであるのかは判りません。

(機体#5)飛燕1型丁、#4424, 小林照彦戦隊長機,調布飛行場,1944年12月末から1945年1月初め
この有名な機体は小林戦隊長に長く愛用され,特攻機として1945年6月6日に失われるまで4回のマーキングの変更を受けています。最初の知られているマーキングは、1944年12月中頃に浜松基地で撮影された写真(6)にあります。このデカールは1944年12月末から1945年1月初めに調布飛行場に戻ってきた時のマーキングを示します。この時写真(7)とクローズアップ写真(8)にあるように1機のキルマークをつけています。脚カバーの機番は赤です。主翼の機銃は取り除かれ,機銃口はパッチで塞がれています。

(機体#6)飛燕1型乙,#16, たぶん生野文介大尉機,調布飛行場,1945年2月23−24日
写真(9)と(10)は,キルマークをつけた有名な飛燕のもので、松枝伍長や前田中尉の記念写真の背景として使われました。しかし244戦隊協会の努力により、そのマーキング全体と誰の乗機かについて明らかになったのはつい最近です。この機体は15号機(写真11)で,キルマークの日付(1945年1月3日)からして,たぶん生野大尉機です。この日8人のパイロットが撃墜を記録していますが、そよ風隊員は生野大尉と小川中尉だけであり,後者の機体は別の写真によって飛燕1型丁であることが判っています。この16号機は機首が短く主翼にマウザー砲がないので、たぶん飛燕1型乙でしょう。日の丸の白帯は非常に荒く描かれ,尾翼の戦隊エンブレムは赤の2にコバルトブルーの4と星です。脚カバーのユニークな機番スタイルに注意。キルマークは綺麗な直線状には並んでいません。

(機体C#7)飛燕1型丙、#88, 生野文介大尉機,調布飛行場,1945年2月23−24日
この機体は写真家菊池俊吉氏が写真(12)を取った時そよ風隊隊長の生野大尉によって操縦されているが、このことをもってこの機体が彼の専属機であると言う事にはならない。何人かの研究者はこの機を別のパイロット(例えば竹田大尉)の物としているが、我々の調査によりこれは正しくないことがわかっている。 尾翼の戦隊エンブレムは異常に前下がりになっていることに注意。主翼上面には薄く濃緑色迷彩が施され,日の丸の白帯の縁とエルロンの一部を覆っているようだ。
(A/C#8)飛燕1型丙,#71, パイロット不詳,そよ風隊,調布飛行場,1945年2月後半
これは機体上面を濃緑色に塗ったそよ風隊の1機です。2つの綺麗な写真(13,14)があり、機体の左右両方とも判ります。尾部の戦隊エンブレムは赤の2と白の4と星です。